たのしいな |
HPぼ〜ぐなん広場 (9)
HP不思議の島 | |
ぼーぐなんの『ABCの本』を使っています。書き始めた当初こそみんなで揃って取り組みますが、 すぐに子どもたちひとりひとりやりやすいところからやりやすいペースで進んでいきます。 右側のページにはそれぞれの字で始まる絵を描くのですが、言い方のわからないものは描いては いけないという約束にしています。 ワードブックでみつけた絵の言い方がわからないときは聞きにくることにしています。 毎年何人かワードブックの海のページを開いて島の絵を指差しながら“What's this in English?” と聞きにきます。その子たち(4年生)は「島は英語で/ailand/という」ことはわかっているのです。 初めてまじまじと字に注目してみると、なにやらすっきりしない暗い影のように s という字が 言葉の中にあってどうもこれは自分が知っている /ailand/ とはちがうものなのではと思い、 確かめたくなるのです。私が “What's this in Japanese?”と聞くと心細そうに「島?」といいます。 畳み掛けるようにこちらが “Yes! What's shima in English?” と聞くと腑に落ちないように “/Ailand/”.と答えます。指で字の部分をなぞりながら “Yes! This is an /ailand/”. というと、 「ふううん、なんか変なの…」という顔で席に戻っていきます。 島ばかりでなく、包丁や写真家で「?」な気持ちになる子もいます。 不思議なのは、これまで授業の中で正面切って「sという字の音はね」とか「kという字の音はこうよ」 というような指導をしていないのに早口言葉や他愛のない文字遊び・言葉遊びを通して、子どもたちが 「/ailand/ にsがついてると変な気がする」と思えるようになってしまっていることです。 文字と音の関係を類推して、自分なりに仕組みを発見しているのだと思います。 子どもの学びの一端をみることができて、楽しい気持ちになるのも、毎年のことです。 粕谷 恭子 (聖マリア小学校) |
読者からのお便り | ||
お便り | ぼ〜ぐなんのレッドブックで小学校2年生のレッスンをした時のことです。 わたしのプランとしては、表紙でしばらくいろいろなものをさがして楽しんでから スゴロクゲームをして春休みらしい伸び伸びした気分で英語を使ってみよう・・・ と考えていました。ところが、 “あ! ここに花さかじいさん! メアリーポピンズ!!” “いっすんぼーし! きんたろー!” “不思議の国のアリス!” ・・・ という具合にクラスは一気に盛り上がり、 “Oh, yes. Alice is here. She is sleeping by the tree.” とあいづちを打つ内に時間は瞬く間に過ぎました。 ひとりの生徒がくすっと笑うと、“わたし、おはなし作っちゃた。 Santa is sad. でトナカイも sad で今、さがしっこしてるんだよ。” わたしの見つけられずにいた宝物をこどもは上手に見つけて、 一生懸命英語で言おうとします。 聞いているわたしのほうが“表紙の楽しみ方”を教えられました。 ひとつ質問があります。最近指導書の中で“生徒中心のレッスン”learner-centered ということをよく目にします。 従来型のプランをしっかり立て、言語材料を選ぶ指導法を批判しているようにもとれて、 どう定義したらよいのか測りかねています。 これはどういう考え方なのでしょうか。 アルぺグリーンハットクラブ 須貝 由美子 | |
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| 編集部より 広場への投稿をありがとうございます。 Welcome to Wonderland Red Book と小学校2年生との出会いの様子が、そのはしゃいだ声まで 聞こえてくるようで、とても楽しく読ませていただきました。 Wonderland テキストの絵本のような表紙を覗き込んで、何かを探そう、そして、見つけたよ! といいたくてたまらない、あれぇ、友だちが先に見つけちゃった、それじゃ、何か別のを探そう! と、みんなが躍起になっている、子どものはじけるようなエネルギーが伝わってきました。 それは、先生が子どもを信頼し、子どもが心を開いて英語に体当たりしている姿を温かく見守って おられるからこそ生まれるクラスの雰囲気なのだと思います。 いいなぁ、これこそ子どもの主体性を大事にした授業、と思いながら読ませていただいていたら、 最後に“learner-centered”な指導法についてご質問があり、あら、先生のこそ“learner-centered” じゃないの、と思いました。 確かに、“learner-centered”というのは先生が付け加えておいでのように、従来型の“teacher- centered”な授業を批判しているようなニュアンスのある言葉ですよね。 確かに「学習者中心」とは、子どもたちが積極的に授業の中で表現活動に参加させることを意図している と考えます。でも、“learner-centered”と言いながら、子どもが英語を言えるように、と、 英語のスキットを暗記させ、子どもがいえるようになるまで繰り返し練習させている授業を見ると、 これがlearner を大切にしている授業なのかなぁ、と考え込んでしまいます。 学習者の学習能力を導き出し、積極的に表現活動に参加する力をつける、というのが学習者中心の指導方法 だとすると、子どもに英語を使えるようにさせてあげよう、という「親心」が勝ちすぎた指導は、やはり危ない、 といわざるを得ないでしょうね。 learner-centered って、本当に難しいことだと思います。子どもの心の動きを正確に捉えることができないと、 きっと失敗するでしょうね。子どもの学びが起こる授業を、と口では言いますが、なかなかどうして、 子どもの目の輝きや曇りを瞬時に判断して、子どもが必要としている英語のエッセンスを与えていくこと、 これは永久の課題だと思います。 大村はまさんが、「教えたっていいと思う」と、『わくわく授業』という番組の中で言っておられたのが 耳に焼き付いています。「教師が教えたくらいで、子どもの個性を変えることなんて出来ない」ともいわれました。 「教師だもの、教えたっていい、教えなくっちゃ。」だけど、どうやって? そこを、大村はまさんは 授業を通して実践なさったのだと思います。 素材を選び、教材として練り上げ、子どもの習熟の度合いを測りながら、授業内容を提供していく、 長い時間をかけた作業が、教師の仕事なのでしょうね。 その作業を続けるときに、learner の姿が見えなくなることが往々にしてある、teacher の都合で授業を 仕切ろうとする、そんなところに、教師の格闘の場があるのでしょう。 思い通りにならない授業を子どもの所為にしてしまったり、子どもの心を読み取れない自分の至らなさ、 不十分な教材研究でも、何とか教え込もうとする傲慢さ、 learner-centered な指導に失敗する要因はいくらでもあります。 でも、ありがたいことに、子どもたちと目が合うときに、諦めるのは早い、と思える力をもらうことができます。 今日はお答えにならない答になってしまいました。 でも、そんな“格闘”を楽しめる、生涯一教師であり続けられたら、幸せですね。 久埜 |
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